MY.JAZZ ROCK・GRAFFITI !

fulmas2011-07-27

人それぞれ音楽の聴き方は違う、店をやってるせいもあって常に新しい音には敏感で、古い良い音楽はジャンルを問わず聴いて来たつもりだが、体験的にはロック的な物がやはり多い、しかし青春時代に一時嵌ったジャズがどうしても忘れられず時々聴いている、昔からジャズとロックの接点が気になって、ロックのレコードにジャズミュージシャンがサポートしていると思わず笑みがこぼれる(ラスカルズのバックにアリス・コルトレーンがいたり)、と言う訳でジャズ・ロックの事等を書き連ねてみる。
高校時代にラジオのポップスに嵌った後、ビートルズは生ぬるいと従兄のケンジにアニマルズ、ストーンズあたりから黒人音楽のブルース、ソウルに導かれる。
サラリーマン時代に先輩のO氏にジャズとオーディオの世界を教わる、実際仕事をさぼって先輩の家でいつもジャズを聴かされていた、辞める時ブルーノートシングル盤をプレゼントされる、それがリー・モーガンの「サイド・ワインダー」だ。
ハード・バップの後ファンキー・ジャズ、ソウル・ジャズが注目され、アート・ブレイキーの「モーニン」の後「サイド・ワインダー」が爆発的ヒット!ラムゼイ・ルイスの「ジ・インクラウド」(ラジオのロイ・ジェームスの番組のテーマ曲:ナツカシー!)やキャノンボール・アダレーの「マーシーマーシーマーシー」等ジャズ・ロック・ブームがありました。
60年代後半にジャズ誌「スイング・ジャーナル」を読んでいたら植草甚一氏が「今ロックが面白い!」とサイケデリック、ニュー・ロック、アート・ロックと雨後の筍の様に出て来たと!そしてアル・クーパーの「BS&T」プロデューサーはジョン・サイモン(New&Rare ITEM2007・8・18にあります)バック・メンバーはランディー・ブレッカー、デヴィッド・サンボーン
ここで渋谷のブラック・ホークの今は亡き松平氏お薦めの名盤「ジャーニー」登場、松平氏はDIGのDJからロックに移行した人でザ・バンド(初期はジョン・サイモンがプロデュース)を始めスワンプな世界を広めた人だ、その「ジャーニー」のバックもブレッカー、サンボーン、デイヴ・ホランド等だ。
ジョン・サイモンのアルバム「アウト・オンザ・ストリート」の中の「ロックン・ロールは開かれた傷口」という曲があって子供の頃の恐怖がロックで癒され、解放感を得るという行から「ジャズは飛翔への切なる憬れ」「クラシックはつんと付き出た顎」「ブルースは月に吠える声」・・・曲調も優しく!何度聴いても涙溢れる!!
J・サイモンはあのジャニスを調教(失礼)して世に送り出し、数々のロックの名盤、そしてジャズのアルバムも数多くプロデュースしている、日本人に多くのファンを持つ。
ホワイトR&Bバンド「ヤング・ラスカルズ」は新しい音を求めて「ラスカルズ」と改名72年にはニール・ラーセンとバジー・フェイトンの強力なツイン・ギターでファンキーなロックバンドとなってアルバム「アイランド・オブ・リアル」を発表ジョー・ファーレルも参加していた、この年フェイトンとラーセンは「フル・ムーン」なるクロス・オーバーバンドを結成、ジョー・ファーレルやアイアート・モレイラがいるという事はあの「リターン・トゥー・フォー・エバー」と関係あるかな?70年代に入ってから「クロスオーバー」なるジャズ・ロックがブームになる、「ジャズ・クルセイダース」からクルセイダースと改名、「クールなファンキーサウンド」というべきか?とにかく売れた。(ジャズが売れなくなると誰かが仕掛ける?)トムスコットとLAエキスプレス、その両方に絡むラリー・カールトン、ロック、ソウル・ポップのバックバックメンとして大活躍した。
カナダの田舎でフォークを歌っていたジョニ・ミッチェルは都会に出て来てキャロルやジェームスのバックバンド「セクション」をバックにした後ロックからジャズに目を向ける、最初はLAエキスプレスだったが飽き足らず、ウエザー・リポートを観た時「アァ!私のバックはこいつらしかいない!」と言ったかどうか?すぐに合流、その後数々の良質なアルバムを発表、ライヴも素晴らしかった!  つづく