尊敬する中村とうようさんが自殺!?

fulmas2011-07-22

昨日8月号「ミュージック・マガジン」を購入、「とうようず・とーく」欄を読んでいたら朝日の篠崎君に感謝の意を実名入りで述べていた、篠君は開店当初からの常連で千葉高から東大そして朝日とエリートコース一直線、今年の夏前に久し振りに実家の帰りに寄ってくれ、落語の仕事の話、特に立川談志の事(どうやら退院したもよう)等を話したばかり、そしてとうようさんの悲報が飛び込んで来た!店が忙しかったので夜中に分別も無く電話したら「この時間いつも起きてるヨ」と快く応じてくれ少し話をしたが、明日から沖縄行きらしいのでまた今度と電話を切った、次回のとーくの原稿にさよならが書かれていた様だ、篠君はマガジンに一時良く記事を書いていて、いわば仲間みたいなもの、朝日の夕刊に音楽のコーナーがあった(篠君担当)筈だが(最近見て無い)そこでとうようさんやエージさんが時々記事を書いていた。
銀行マンを辞め、一時「スイング・ジャーナル」に記事を書いていたが1969年に田川律氏等と「ニュー・ミュージック・マガジン」を立ち上げ、それまでのミュージック・ライフや音楽専科等とは違ったラジカルな音楽専門誌として注目を集めた、当時はまだイデオロギーが生きており、ジャズもロックもテクニック的に進化し続け、また政治、思想、芸術、哲学等を飲み込みながら大きく膨れ上がって行った、「ロック喫茶」なるものが出来始めたのはその頃だ、1971年「ドノヴァン」開店の頃は地方都市にまで広がって行った、後にとうようさんと論争を起こした「ロッキン・オン」のシブヤ君は72年頃ロック喫茶にペラペラの小冊子を置いて回っていたのだった、
その後世の中が落ち着き始め、田川氏は抜け、音楽雑誌として歩き出し「ミュージック・マガジン」と改名、89年まで編集長を務め引退、「とうようず・とーく」だけが残った、創刊から現在まで洩れなく置いてある店は多分うちだけだろう?!
渋谷に編集室があった時一度訪ねたが、北中さんでいっぱいいっぱい!とうようさんはちょっと敷居が高くて話せなかった(笑)
ディランの60年代のアルバムのライナー・ノーツ、70年代に入って最初にブルースのレコードを紹介、本物ブルースマン・スリーピー・J・エスティスの招聘、その後も欧米だけじゃ無い第3世界の音楽を次々紹介してくれた、特にアフリカの音楽、楽器(コレクションが凄い)は勉強になりました、ジュジュ・ミュージック、フェラ&フェミ・クティ、それからカリブの素晴らしさ等ジャズやロックがいかに小さいかと思われる時もありました、音楽の幅と深さを教えてくれた大先輩であります。
集めた音楽資料は武蔵野美大に寄付、客員研究員として務めてもいたらしい、
市川房江さんの市民連合系だったと思うが正義の人、男気のある熱い人、相撲が好きだったかな?「とうようず・とーく」を読み返してみるか。
マガジンの映画コーナーに記事を書いていた今野さんといい、(加藤さんもか)何で?自ら?わからん??
79歳だったらしいが尊敬する先輩が居なくなって淋しいです、心よりご冥福をお祈り致します。
そういえば「スイング・ジャーナル」に続き(?)情報誌「ピア」も休刊、ますますネット社会に突き進んでいるんですね、「ミュージック・マガジン」心配です!