親父の最期

fulmas2009-11-21

親父は栃木県鹿沼の生まれだ、男5人女五人(よくもうまく平等に大量に!)の真ん中あたりに生れた。(現在兄弟で生存しているのは一番下から女性3人)空襲前は麻布十番の本屋で働いていたらしい?東京空襲で喰う為に開拓農民となった。戦後復興してからだいぶ帰っていったが、親父は多分大自然が気に入ったのだろう?居残った。棒高跳びで落ちて体を痛め特に心臓が弱かった父に代わって子供の頃から農作業をやらされ、お蔭様で体力だけは付いた。昭和30年代は電化製品が少しづつ普及していったが我が家は少し遅れていて、こたつ等もまだ炭を使っていた(親父の炭作りはたいしたものだった、あとキノコ採りも上手だった)、高校の時学校から帰ると谷底にある家が赤く揺らいでいるのが見えた!火事だ!走っていってバケツに水を汲み何度も何度もかけた、幸いこたつの毛布とカーテンの裾が少し、柱が少し黒く焼けただけのボヤですんだが、原因は親父が仲間と昼酒しての不注意だった。帰って来た親父にもの凄い勢いで怒鳴りつけた!それ以来親父は俺に対して強くは言わなくなった。(あんなに怖かった親父だったのに少し寂しくなった)道路から家までが坂になっていて、当然舗装もしてない訳だから18の時初めて買った車は道路に置きっ放しだ、親父と二人で石を敷き詰めながら「早く上に引っ越そうよ!」と夢を語りあった。
開拓組合事務所が取り壊され、親父に頼んで廃材を手に入れた、何しろ二間に両親と妹3人はきつい、自分なりに何とか廃材を利用してマイルームを継ぎ足した!
ポータブル電蓄でビートルズの新譜を聴いていた時代から、秋葉原にスピーカー(でかい箱に入った)とアンプを買いに行きプレイヤーも買って、ちょっとしたオーディオルームになった。その頃ツェッペリンがデヴュー、ボサノヴァやジャズに入りかけた俺はまたロックに引きずり戻されたのだ。
毎日が楽しくて仕方なかった!おまけに近所の美少女愛子ちゃんがお祝いにでかいゴムの木を持ってきてくれた!一緒に映画を観ただけで、淡い初恋は消えたが!
電電公社に入社して3年目位の時千葉の旭に出張に行った一〜二週間位だっか?帰ったその晩病み上がりの親父が外へ出たまま暫く帰って来ず心配になった母が見にいくと外に親父が倒れていた「ギャー!」という大声に部屋で夢中で音楽を聴いていた俺も外へ、脳溢血で半身不随、おまけに掛かり付けの医者が送れて来て三日目に逝ってしまった。52歳、寒い節分の日であった。最期に尿瓶で親父のあったかいモノを摑んだ感触は今でも忘れない!その後すぐにトイレを家の中に作ったのは言うまでもない!
親父が死んで暫くして田中角栄の「列島改造論」が実行に移され、広大な9000坪の谷は真平に埋め尽くされた、「緑の森工業団地」である!今は愛子ちゃんの兄貴の広大な花畑となり春から秋は美しい花が咲き乱れる、開拓農民で唯一大成功を収めた「小森谷農園」である。
親父との思い出が工場の下になくて花畑の下でホントに良かったと思っている!!