理平日記

親父の形見に一冊の日記と一通の手紙がある。日記は17〜8の頃麻布十番の本屋で仕事をしていた時のもの、手紙は私が電電公社の山梨の学園で寮生活をしていた時のものだ。
一九三六年・三月・廿七日(金)晴れ 昨日と打って変わって暖かい小春日和、街のペーブメントは人々の雑踏、公園も大勢の人出だ。空にはアドバ               ルーンが上がっていて、何とは無しにのどかである!・・・

      五月・廿日(水)晴れ 怪奇殺人事件の妖婦「阿部定」遂に逮捕さる! この様な号外が出た。
                 事の起こりは料理店の主人と情痴の果てに絞め殺し、鋭利な刃物で・・・

等と事細かに書いているが、手紙にしても夕方仕事を終え空を見上げた時の描写、情感、十五夜の晩の情景等なかなかの詩人であった!
それからまだガキの自分に「人は如何にして生きるべきや?」とか、哲学とは何ぞや?なんて良く言われた・・・

日記にも心臓の持病の事、タバコは体に悪いとか書いてあったが、終戦後の疎開、開墾の苦労も半端じゃなかったと思うし、ましてや4人の子供を抱えての生活は・・・重労働に酒とタバコでやはり寿命を縮めた、天寿52歳は無理からぬ事だったのだ。

終戦後ある程度日本も落ち着きを取り戻した昭和30年代我が家では最初はサトウキビ、菜種、タバコ、ゴマと何でも手当り次第に栽培していたが
収入の高いスイカを栽培する様になった、しかし斜面の多い畑で麻の袋(南京袋と呼んだ)にでかいスイカを三つも四つもではかなりきつい、道路まで何度も往復しなければいけないのだ!それとまだ寒い2〜3月にビニールのトンネルで寝ている可愛いスイカに夜こもをかけるのだが、風の強い日は吹き飛んでしまい家中でそれを直しに行く、まだ小さい私も当然手伝わされるのであった。

母に後で聞いた話だが、開墾の頃、幼な児の私は忙しさのあまり良く「しょいかご」(背負い籠)の中に放置されていたらしい!? 更に続く